げーとの思考

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【マティアス&マキシム】と印象派と表現主義

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ドラン作品は、純粋にフラットな視点で評価するのが難しい。ドラン作品というだけで好きだからだ。これはもうファンになっているんだと思う。

本作でも母と息子の確執は分かりやすく一つのテーマになっている。自身の性と母との関係性はドランにとって永遠のテーマなのだと思う。

また、印象的にクラブミュージックが使われているのもドランの特徴なのかなと今回思った。

あらすじ

幼馴染のマティアス(マット)とマキシム(マックス)は、とある映画の撮影でキスをすることになる。それがきっかけとなり、お互いへの気持ちに気付くことで戸惑い、周りを巻き込んですれ違っていく。

感想

目線

本作でまず気になったのは女性からの目線。

別荘の壁に掛かっていた二人の少女の絵、バス停でマックスを見るゴスの女、ストリッパー、母親たちなど男性が女性から視線を向けられる場面が多い。

男性性と女性性の間で揺れ動く二人が世間から責められているかのような心情を持ってるんだろうか。

本作品でやっと気がついたが、ドランの作品は登場人物がどう受容されていくか。がポイントになってる事が多い気がする。

服の色

映画の撮影シーンでは、マックスが青、マットが赤の服を身につけているのに、普段着のメインカラーはマックスが赤、マットが青の服を身につけてる。

映画の撮影のキスによって相手の色に染まり、強く風で揺れるブランコ、消える蝋燭、放置された遊び道具から二人の心情が強く揺れ、それまでの関係性が消え、幼馴染として楽しく遊んでいた時代の終わりを暗示しているように見える。また、おもむろにマットが翌朝、暗く青い湖で泳ぎ始めるのは一度染まった赤を自分の色で洗い流そうと必死になっているようにも見える。

印象派表現主義

また、劇中撮影された映画は「印象派かつ表現主義、これらが並列するかがひとつの重要な要素、男であって女、本当の中身はわからない。」といった説明がされる。印象派かつ表現主義がよく分からなかったので調べてみたところ、どうやら、目に見える外側の世界だけを描いたのが印象派、目に見えない自己の内面性を描いたのが表現主義らしい。そのため、ここの意味合いは文字通り、外形的に男性でありながら女性性が内在する人間をどのように描くかがポイントと説明されていることになる。

おそらく、これは本編自体の説明として捉えても良いだろう。他方で、マットは「あのクソ映画」と揶揄していることから、「そんな小難しく考えずにとにかく今この苦しんでいる俺たちそのものを見ろ」というのが真のメッセージなようにも思える。

印象的なワンカット

本作でなんと言っても一番印象的だったのは、マックスの送別会でマットが大喧嘩して帰る際、手前の明るくて照らされた道から奥の暗い道に向かって歩いていく中で暗闇の向こうから車のヘッドライトの一筋の光が見えるシーン。結局、マットはその暗闇に進まずに明るい道を引き返して家に戻る。

こんなに分かりやすいのに、印象的で、映像としても綺麗なワンカットがあるだろうか。

パーティシーンについて

マックスの特徴的な外見であるあざに関して、冒頭から一切誰も指摘しないが、遂にパーティでその均衡をマットが破る。マックスを回りが中身を見て関わっているからこそそういった話は出ず、マックスも居心地良さそうにしているが、それを仲の良かったマットが言うことで一言で何倍もの威力となって視聴者とマックスを襲う。

「このあざ野郎」この一言でこちらまで悲しい気分になってしまった。

 

「社会構造の基本は所有、だが人間は獣だから結婚は崩壊する、どちらかが気付くまでただ存在するだけ。」この言葉も響くものがあった。

個人的にはこの言葉には反対だし、真実ではないと思う。マットは揺れていたように見えた。彼の立場からすれば、撮影のキスによって気付いたことでまさに友情を壊したばかりなので当然の反応とも思える。

まとめ

相変わらずドラン作品は好きだなぁとしみじみ思った。他の過去作も近いうちに見直してみたい。