げーとの思考

映画、本、音楽、思考に関する雑記中心のブログ

少し、思い出した。

久しぶりに酒を飲んだ。

 

スコッチとIPAが好きだ。

 

飲み終わった後、ゴミを捨てに外に出て、少し冷たくなった秋の風を吸い込んだら、喉の奥でビールのホップの香りが舞った。

その瞬間に、学生時代、毎日のように一緒に酒を飲んでいた先輩の家から夜中、近くのコンビニまで追加の酒を買いに行った時の事を思い出した。

かなり前に吸わなくなってしまったcamelの煙草を点けたら完璧だ。

 

もう人生で二度と会わないかもしれない人を、秋の風とビールで思い出せた。

昔よりも飲まなくなってしまったけど、たまに飲むのも悪くないな。と思った。

【マティアス&マキシム】と印象派と表現主義

happinet-phantom.com

ドラン作品は、純粋にフラットな視点で評価するのが難しい。ドラン作品というだけで好きだからだ。これはもうファンになっているんだと思う。

本作でも母と息子の確執は分かりやすく一つのテーマになっている。自身の性と母との関係性はドランにとって永遠のテーマなのだと思う。

また、印象的にクラブミュージックが使われているのもドランの特徴なのかなと今回思った。

あらすじ

幼馴染のマティアス(マット)とマキシム(マックス)は、とある映画の撮影でキスをすることになる。それがきっかけとなり、お互いへの気持ちに気付くことで戸惑い、周りを巻き込んですれ違っていく。

感想

目線

本作でまず気になったのは女性からの目線。

別荘の壁に掛かっていた二人の少女の絵、バス停でマックスを見るゴスの女、ストリッパー、母親たちなど男性が女性から視線を向けられる場面が多い。

男性性と女性性の間で揺れ動く二人が世間から責められているかのような心情を持ってるんだろうか。

本作品でやっと気がついたが、ドランの作品は登場人物がどう受容されていくか。がポイントになってる事が多い気がする。

服の色

映画の撮影シーンでは、マックスが青、マットが赤の服を身につけているのに、普段着のメインカラーはマックスが赤、マットが青の服を身につけてる。

映画の撮影のキスによって相手の色に染まり、強く風で揺れるブランコ、消える蝋燭、放置された遊び道具から二人の心情が強く揺れ、それまでの関係性が消え、幼馴染として楽しく遊んでいた時代の終わりを暗示しているように見える。また、おもむろにマットが翌朝、暗く青い湖で泳ぎ始めるのは一度染まった赤を自分の色で洗い流そうと必死になっているようにも見える。

印象派表現主義

また、劇中撮影された映画は「印象派かつ表現主義、これらが並列するかがひとつの重要な要素、男であって女、本当の中身はわからない。」といった説明がされる。印象派かつ表現主義がよく分からなかったので調べてみたところ、どうやら、目に見える外側の世界だけを描いたのが印象派、目に見えない自己の内面性を描いたのが表現主義らしい。そのため、ここの意味合いは文字通り、外形的に男性でありながら女性性が内在する人間をどのように描くかがポイントと説明されていることになる。

おそらく、これは本編自体の説明として捉えても良いだろう。他方で、マットは「あのクソ映画」と揶揄していることから、「そんな小難しく考えずにとにかく今この苦しんでいる俺たちそのものを見ろ」というのが真のメッセージなようにも思える。

印象的なワンカット

本作でなんと言っても一番印象的だったのは、マックスの送別会でマットが大喧嘩して帰る際、手前の明るくて照らされた道から奥の暗い道に向かって歩いていく中で暗闇の向こうから車のヘッドライトの一筋の光が見えるシーン。結局、マットはその暗闇に進まずに明るい道を引き返して家に戻る。

こんなに分かりやすいのに、印象的で、映像としても綺麗なワンカットがあるだろうか。

パーティシーンについて

マックスの特徴的な外見であるあざに関して、冒頭から一切誰も指摘しないが、遂にパーティでその均衡をマットが破る。マックスを回りが中身を見て関わっているからこそそういった話は出ず、マックスも居心地良さそうにしているが、それを仲の良かったマットが言うことで一言で何倍もの威力となって視聴者とマックスを襲う。

「このあざ野郎」この一言でこちらまで悲しい気分になってしまった。

 

「社会構造の基本は所有、だが人間は獣だから結婚は崩壊する、どちらかが気付くまでただ存在するだけ。」この言葉も響くものがあった。

個人的にはこの言葉には反対だし、真実ではないと思う。マットは揺れていたように見えた。彼の立場からすれば、撮影のキスによって気付いたことでまさに友情を壊したばかりなので当然の反応とも思える。

まとめ

相変わらずドラン作品は好きだなぁとしみじみ思った。他の過去作も近いうちに見直してみたい。

【恐怖の正体】:春日武彦

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あらすじ

人が感じる様々な恐怖について様々な角度から分析し、恐怖とは何か、どういったメカニズムで感じるのかについての考察

感想

集合体恐怖症に代表される恐怖症、娯楽としての恐怖、グロテスク、死と恐怖などについて考察がなされている。

筆者がいうには、恐怖とは、危機感、不条理感、精神的視野狭窄が組み合わさることにより立ち上がる圧倒的感情である。

たしかに思い当たる節は多い。

 

本書において私が興味を惹かれたのは、娯楽としての恐怖とグロテスクについてである。

娯楽としての恐怖

人はなぜ、娯楽としての恐怖を楽しむのか。筆者いわく、恐怖は極限を超えた事象がもたらす感覚があると、そしてその極限の先を安全地帯から見たいとする願望が娯楽たらしめているとする。

たしかに、ホラー映画を見る際、お化け屋敷に入る際の感覚はそのような感情があるかもしれない。

東京の某所に予約制のお化け屋敷がある。その時々によって演目が変わっており、ライトなお化け屋敷のときもあれば、人によってはかなり重いお化け屋敷になっていることもある。

私がそこに重めのお化け屋敷になっている際に行った時、本当に怖い思いをした。それこそ夢で見るような、昼間でも思い出すようなレベルの怖さだった。しかし、お化け屋敷にいる間も、出た後も、同時に楽しいという気持ちもあった。

それは、心のどこかで、「この今の状況はフィクションである」という安心感があったからである。逆にいえば、その安心感を打ち崩すような仕掛けがさらにあれば更なる恐怖に落ちたかもしれないが、あれ以上の恐怖に落とされたらそれはもう”娯楽”ではなくなっていただろう。

娯楽として楽しむ以上、どこか安全地帯を感じる必要があると思う。その点で、映画よりもお化け屋敷というのはそのギリギリを責められる点で優秀なのかもしれない。

ただ、これが「読むと呪われる」、「見ると呪われる」といったような文句のついた文学や映像になるとまた話は別である。これはこれで上手く安全地帯がありそうでないような絶妙なポジションに視聴者が追いやられるため、娯楽としてギリギリの恐怖が成立するのだろう。

グロテスク

筆者いわく、グロテスクとは、目を背けたくなる、そのようなものと一緒に自分はこの世界を生きていかねばならないのかと慨嘆したくなったり震撼させられたりする、その異質さはときに滑稽さという文脈でしか受け入れられない、という。

グロテスクとして真っ先に思い浮かぶのは、ライチ光クラブである。

www.ohtabooks.com

もともと、ライチ光クラブは、筆者の古谷兎丸氏が昔見た劇団東京グランギニョルの演目を漫画化したものである。

劇団東京グランギニョルがどのような演目を行っていたかはYoutube等で見ることが出来る。初めてこれを見たとき言葉としてしか捉えていなかったエログロナンセンスとはこういう物をいうのかと驚愕した覚えがある(厳密には全然違うのかもしれない)。

ライチ光クラブは、人によってはまったく受け入れられないだろう、が、独特の魅力がある、その耽美さ、アンダーグラウンドさ、異質性などである。

その異質性、アンダーグラウンドさの一角を支えているのがグロテスクな表現なのである。ライチ光クラブにおける典型的なグロテスクな表現は内臓が出てくるところであるが、それとは別に中学生たちが夜な夜な廃工場でロボットを組み立て、美少女を誘拐し、凄惨な仲間割れの果て殺し合いを始めるという物語全体が、「目を背けたくなる、そのようなものと一緒に自分はこの世界を生きていかねばならないのかと慨嘆したくなったり震撼させられたりする、その異質さはときに滑稽さという文脈でしか受け入れられない」というグロテスクさに包まれているように思える。

まとめ

恐怖とは何か。ちょっとした興味で本書を読んでみたが、正直自分のなかで恐怖とは何かを整理する必要はあったのか。と疑問に思った。が、読んだからこそ、そう思えたのかもしれないし、読みたいと思ったその時の感情に従って本書を買ったのは間違いではなかったと思う。

【秘密の森の、その向こう】とNirvana,smells like teen spirit

映画の世界に浸れる良い映画だった。

フランス映画がSFになるとこんな感じになるのか。新鮮。

あらすじ

祖母が他界し、母が姿を消した日に、8歳のネリーが森で出会ったのは、自分と同い年の母でした。二人の少女の出会いがもたらすものは。

感想

原題は「Petite Maman」で小さなお母さん。そのまま。

 

マリオンが赤、ネリーが青っていうカラーはどういう意図だったんだろう。中間色の紫が出てくるかなー?と思ったけど特になし。

 

煙草のシーンとか、娘からの質問に対する返答量からおそらくだけどこのお父さんはネリーと仲の良いお父さんではないのかなーきっと。

フランスってなんとなくのイメージだけど、子供に許可を取っているとはいえ子供の前で煙草吸うのってあんまり良い父としての行動ではないんじゃないかと。

ネリーが祖母の部屋で寝た夜も、マリオンのように一緒に寝るのではなく子供部屋で寝ているし。

ただ、今回マリオンがいなくなって娘と話す時間が取れた事で娘と親密な関係になっているように見えた。

おそらく髭剃りのシーンはこれまでの父親との決別で娘との距離が縮まった事を示すのかなと。その後のネリーが帰りたくないというシーンで初めて父と娘のハグのシーンが出てくるし。

 

マリオンが受けた手術は股関節脱臼とかかな?ネリーも少し気になる歩き方をしてたし、意図的なのであればネリーも9歳を迎える頃に手術を受ける暗示なのかなと思ったり。血族性を強調している。

 

最低限の会話と、一切のBGMが削られて、森の薄暗い中の鮮やかな色彩と、おばあちゃんの家の室内の少し暗くてくすんだ色味の画面が続く。

ラストで一気に流れる未来の音楽と、湖の明るくて開放的な画面が印象的。究極的に爽やかにしたNirvanasmells like teen spiritのサビのような開放感。

最初の方のお婆ちゃんの家に向かうシーンでネリーがヘッドホンをかけているので音楽が好きという事は分かるのだけど、そこから一切BGMが無かったので何故だろうと思っていたら最後を効果的にするためだったのか。と納得。

 

印象に残ったのは、

「秘密というのは、隠すということではなく、言う人がいないこと」

「私が悲しいのは私のせい」

 

感情を揺さぶるような事はしてこないのに、じんわり心に響く良い映画。

 

女性よりも男性の方が人から相談された事を覚えていない。:トリンドル玲奈さん

はじめまして、何処かの誰か様

このブログに興味を持っていただいてありがとございます。

 

先日、人志松本の酒のツマミになる話を見ていたら、トリンドル玲奈さんが「男性の方が女性よりも、前に相談した事を覚えていない事が多い」と仰っていた。

確かにそれは傾向としてありそうだな。と思ったので少し考えてみた。

 

 

結論から言うと、共感力の差による当事者意識の違いなのではないかと思った。

 

一般的に男性よりも女性の方が共感力が高いと言われている(専門的に通説がどうなっているかは置いといて)。それに対して男性は、共感よりも問題解決を優先しがち。とも言われている。

そのため、女性から相談された際に「あ、わかるー!」とだけ言っておけば良い場面で男性は解決策を示してしまい反感を買う。といった事はよく聞く話である。

 

このことからすれば、女性は人から相談を受けた際に共感しながら聞くため、男性よりも当事者意識を持ちやすい可能性があるのかもしれない。なので、男性よりも女性の方が相談内容が記憶に残りやすい。他人事ではなく、自分事として捉えるから。

 

ただ、男性は単にタスク処理として捉えてあくまで他人事なので記憶に残りづらいのかというと少し疑問が残る。相談の内容が印象的であればたとえ他人事として聞いていても記憶に残りそうなものである。

とはいえ、やはり、同じ相談事に対して自分事として親身になって聞いた場合と、他人事として聞き解決策を示すだけに留まった場合とでは記憶への残りやすさは差があると思う。

 

そのため、男性の方が女性よりも、前に相談した事を覚えていない事が多いというのは、可能性があるかもな。と思った。

いかがでしょうか。

 

ではでは

【料理の四面体】:玉村豊男

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あらすじ

世界各国の料理の調理法の共通点を筆者独自の観点から分析し、料理の基本を抽象理論化しようと試みている本。アルジェリア式羊肉シチューからフランス料理を経て、豚肉のショウガ焼きに通ずる調理法とは。

感想

結論から言えば、調理とは火、空気、水、油の各要素の割合を変化させることである。というものである。また、同じような調理法であっても素材を変えるだけで洋風になったり和風になったりする。といったようなことを言っていると理解した。

 

私もどちらかといえば料理は得意な方なので、感覚的に共感できた。

小さい頃から何か食べたいものがあったら、レシピを知らべて作ることを繰り返す内に創作料理が作れるようになった。

ある一定の品数が作れるようになると、料理の一定の勘所ができるのだろう。

 

例えば、ペペロンチーノは熱したオリーブオイルに、にんにくのみじん切りと唐辛子を入れ、低温で香りを出した後、パスタと茹で汁を入れて、オリーブオイルを流し入れてフライパンを煽る。そうすると、パスタの小麦のとろみと、オリーブオイルの油脂がちょうど茹で汁と一体化し乳化するのでそれがソースになる。

ここに例えばしらすと大葉を加えればしらすのペペロンチーノになるし、小麦のとろみと油分が攪拌することでソース状になることを応用すれば、ステーキを焼いた汁にワイン、塩分を加えて最後にバターを入れれば適当なソースになりそうだと予想がつくようになる。まるで、数学の公式を覚えて、いくつか基礎問題を解くと応用問題が解けるようになるように。

初めて刊行されたのが1980年であるにも関わらず未だに復刻版が出版されているのも納得できる。

 

私個人としては、この本に書かれていることは感覚的に知っていたので大きな驚きにはならなかったものの、料理の幅を広げる際の抽象的な考え方としてはとても役立つと思うのでお勧めである。

【パターソン】と日常の小さな変化

日々の生活の中の小さな幸せや楽しみをきちんと噛み締めようと思える映画。

あらすじ

パターソンという街に住むバス運転手のパターソンと妻ローラと愛犬のマービンの本当に何気ない日常を描いた7日間の物語。

感想

何気ない本当に何気ない日常。
これを映画として成立させてるのが凄いなと思った。
非日常的な体験のはずの映画の中の日常っていうのがなんとも。
主人公たちも休日の少し特別な非日常に映画を観に行ってるのに、この映画を観てる視聴者は日常を観させられてるみたいな図式は面白いなーと思ったり。

こういう生活ともっと色々起こるような生活自分はどっちが好きかなーと考えてしまう。

「幸せとは何か」を考えるきっかけになったって感想もよく見かけたのでそういう楽しみ方もあるのかもしれない。あとは癒されたといった意見もよく見かけた。大きな出来事が起こらないからこそ、こういう映画の楽しみ方は難しいが、そういう視点で見てみると面白いのかもしれない。

岡田斗司夫的にいうと葬送のフリーレンのようなロードラマ的な見方が良いのかもしれません。


何回か見返すと色々発見ありそうなスルメ系の雰囲気も感じました。

白黒と双子、主人公夫婦の隠と陽の性格の辺りが象徴的なメタファーとして出てくるけど、両極端なもの、似て非なるものに溢れて囲まれてるパターソンの世界観だからこそ、その中で唯一中間的で極端な事が起こらない"主人公夫婦の生活"が際立つような。

ただ主人公夫婦も完全に正反対ではなく、両者ともに表現者であることは共通してて似てるところなんだなーと。


大多数の日々の生活は、大きな変化は起こらず基本的にルーティンの繰り返しだけど、同じ毎日は二度と来ない。でも、そんな毎日の中にも小さな幸せや小さな変化はあって人生は素晴らしい。そんな事に気付かせてくれたり、再確認できる、そんな映画だと思いました。