げーとの思考

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【恐怖の正体】:春日武彦

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あらすじ

人が感じる様々な恐怖について様々な角度から分析し、恐怖とは何か、どういったメカニズムで感じるのかについての考察

感想

集合体恐怖症に代表される恐怖症、娯楽としての恐怖、グロテスク、死と恐怖などについて考察がなされている。

筆者がいうには、恐怖とは、危機感、不条理感、精神的視野狭窄が組み合わさることにより立ち上がる圧倒的感情である。

たしかに思い当たる節は多い。

 

本書において私が興味を惹かれたのは、娯楽としての恐怖とグロテスクについてである。

娯楽としての恐怖

人はなぜ、娯楽としての恐怖を楽しむのか。筆者いわく、恐怖は極限を超えた事象がもたらす感覚があると、そしてその極限の先を安全地帯から見たいとする願望が娯楽たらしめているとする。

たしかに、ホラー映画を見る際、お化け屋敷に入る際の感覚はそのような感情があるかもしれない。

東京の某所に予約制のお化け屋敷がある。その時々によって演目が変わっており、ライトなお化け屋敷のときもあれば、人によってはかなり重いお化け屋敷になっていることもある。

私がそこに重めのお化け屋敷になっている際に行った時、本当に怖い思いをした。それこそ夢で見るような、昼間でも思い出すようなレベルの怖さだった。しかし、お化け屋敷にいる間も、出た後も、同時に楽しいという気持ちもあった。

それは、心のどこかで、「この今の状況はフィクションである」という安心感があったからである。逆にいえば、その安心感を打ち崩すような仕掛けがさらにあれば更なる恐怖に落ちたかもしれないが、あれ以上の恐怖に落とされたらそれはもう”娯楽”ではなくなっていただろう。

娯楽として楽しむ以上、どこか安全地帯を感じる必要があると思う。その点で、映画よりもお化け屋敷というのはそのギリギリを責められる点で優秀なのかもしれない。

ただ、これが「読むと呪われる」、「見ると呪われる」といったような文句のついた文学や映像になるとまた話は別である。これはこれで上手く安全地帯がありそうでないような絶妙なポジションに視聴者が追いやられるため、娯楽としてギリギリの恐怖が成立するのだろう。

グロテスク

筆者いわく、グロテスクとは、目を背けたくなる、そのようなものと一緒に自分はこの世界を生きていかねばならないのかと慨嘆したくなったり震撼させられたりする、その異質さはときに滑稽さという文脈でしか受け入れられない、という。

グロテスクとして真っ先に思い浮かぶのは、ライチ光クラブである。

www.ohtabooks.com

もともと、ライチ光クラブは、筆者の古谷兎丸氏が昔見た劇団東京グランギニョルの演目を漫画化したものである。

劇団東京グランギニョルがどのような演目を行っていたかはYoutube等で見ることが出来る。初めてこれを見たとき言葉としてしか捉えていなかったエログロナンセンスとはこういう物をいうのかと驚愕した覚えがある(厳密には全然違うのかもしれない)。

ライチ光クラブは、人によってはまったく受け入れられないだろう、が、独特の魅力がある、その耽美さ、アンダーグラウンドさ、異質性などである。

その異質性、アンダーグラウンドさの一角を支えているのがグロテスクな表現なのである。ライチ光クラブにおける典型的なグロテスクな表現は内臓が出てくるところであるが、それとは別に中学生たちが夜な夜な廃工場でロボットを組み立て、美少女を誘拐し、凄惨な仲間割れの果て殺し合いを始めるという物語全体が、「目を背けたくなる、そのようなものと一緒に自分はこの世界を生きていかねばならないのかと慨嘆したくなったり震撼させられたりする、その異質さはときに滑稽さという文脈でしか受け入れられない」というグロテスクさに包まれているように思える。

まとめ

恐怖とは何か。ちょっとした興味で本書を読んでみたが、正直自分のなかで恐怖とは何かを整理する必要はあったのか。と疑問に思った。が、読んだからこそ、そう思えたのかもしれないし、読みたいと思ったその時の感情に従って本書を買ったのは間違いではなかったと思う。